【コラム】はり半を愛して


はり半を愛して・・・

かつて甲陽園には

「つるや」・「はり半(播半)」・「花月」・「子孫」(こまご)・「水月」という

料理旅館がありました。


中でも はり半(播半)は

約1万坪の敷地内には自然遺産とまで称された渓谷と庭園が存在し、

かつては財界人、文化人のみならず、昭和天皇も来訪された関西でも有数の料亭として知られました。

とても雰囲気のある料亭でまるで違う世界に来てしまったかのような場所でした。


四季折々の風景も楽しめ、もちろん出てくるお料理もその季節の旬のもの。

本当にそこだけ切り取られたかのような上品な異空間に誰しもが酔いしれたところでもあります。

そんなはり半は2005年で閉店してしまいました。

もちろん、時代の流れやそのほかやむを得ない事情があったのでしょうが、とても残念に思ったものです。

実は、はり半は、私たち夫婦の両親を交えて、初めて食事をしたところでもあります。

とても緊張していたので、とてもおいしいはずのお料理をあまり味わえず、

その5年後に主人と二人でもう一度行きました。

本当においしくて、夢の中にいるような気さえしたのを覚えています。

ちょうど新緑の季節で、緑が美しかったのも印象的でした。








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はり半とは
はり半(播半)とはかつて兵庫県西宮市に存在した高級料亭である。昭和の文豪、谷崎潤一郎の小説「細雪」にも登場する。高級住宅地の甲陽園にあり、かつては財界人、文化人のみならず、昭和天皇も来訪された。約1万坪の敷地内には自然遺産とまで称された渓谷と庭園が存在し、関西圏では著名な料亭の一つであったが、不況のあおりを受けて2005年6月に惜しまれつつ廃業。

沿革
1878 (明治12)    創業(大阪心斎橋)
1917 (大正6)    五代目当主乾由之助が甲陽園に別荘を建築し、後の播半となる
1945 (昭和20)    空襲で大阪の2店舗が焼失。甲陽園の1件のみとなる
2005 (平成4)    経営破綻により閉店

はり半 wikipedia

その他
はり半は播磨出身の平山半兵衛によって創業された。女将は乾御代子であり、
当時の様子が彼女の著書「御代子おぼえがき」にも記されている。
現在平山半兵衛は大阪天王寺の一心寺に眠っており、墓石の近くに
「瓢箪の よき人前や 散りもみじ」と記された石碑も建てられている。墓石は逆さの瓢箪型である。甲陽園のはり半は木津宗匠による設計。約1万坪の敷地に大師道側に「番人小屋」「表門」「東・西蔵」「本館」、 谷川に「観合橋」、そして橋を挟んで東に「竹山亭」「新館」「舞台」「白雲居」「展望台」「千代の間」が点在していた。 はり半は別名「箪瓢菴」と呼ばれていた。これは通称「箪瓢」(逆さまの瓢箪)がはり半の商標であり、 また大阪心斎橋開業時、店前にはり半が箪瓢橋を建設したことに由来している。

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グルメ情報

はり半の元総料理長が西宮駅近くで新たにお店を開いておられます。

「立峰」

所在地 兵庫県西宮市六湛寺町2−1 電話番号 0798-22-7858

営業時間 ランチ:11:30-14:00

定休日 毎週火曜日

こう聞くと非常に敷居が高そうに見えますが

実際にカジュアルに楽しめる価格設定をされています。

詳しくは…
http://tabelog.com/hyogo/A2803/A280301/28007015/


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